中国とのご縁:「北国の春」を大ヒットさせてくれた蒋大為との出会い

浜田和幸

私は1953年、日本で一番人口の少ない鳥取県で生まれました。鳥取県は昔から「中国地方」を構成する5県の一つです。日本なのになぜ「中国地方」と呼ばれているのでしょうか。それは都が置かれていた京都から「近くもないが、遠くもない」ということで、「中くらいの距離にある国」という意味でした。

 

とはいえ、日本海を挟んで、朝鮮半島や中国大陸からも近く、生まれ育った米子(よなご)という町の近所には少なからぬ朝鮮や中国系の人が住んでいました。小学生の頃には、同級生の何人かが両親に連れられ、当時「地上の楽園」ともてはやされた北朝鮮に移住するというので、学校をあげて送別会が開かれたことを鮮明に覚えています。

幼い頃から、祖父が漢文の教師をしていたこともあり、中国には親しみと関心を抱いていました。また、東京から戦争中に疎開し、近所で書道教室を開いておられた「岩崎素山」先生の下に通いながら、漢字の歴史や「書法」について学ぶことができたことも中国への関心を醸成してくれたように思います。

中学生になると、自分で「鉱石ラジオ」を作るのが楽しく、夜になると届く東京からの電波をキャッチすることに夢中になりました。昼間は中国山地が邪魔をして、東京からのラジオの電波は全く届きません。夜になってようやく東京の電波を受信できたと喜ぶのも束の間で、すぐに海の向こうからやって来る北京放送の強烈な中国語に圧倒されてしまうのです。「日本の皆さん、こんにちは!こちらは北京放送局です!」という、独特の節回しの日本語と聞きなれない中国語に、大いに興味をそそられたわけです。

高校から大学に進学する頃、中国では文化大革命が真っ盛りでした。毛沢東語録を振りかざす紅衛兵の活動や、人民公社を通じた貧しくとも平等な社会を目指す運動にも目を向けることになりました。私が通う地元の高校でも「立て看板」が登場し、社会の不平等を訴える声が拡散したものです。

もちろん、東京のような大都会ではもっと大きく激しい運動が巻き起こっていました。その影響で、東京大学の入試も行なわれない「安田講堂占拠事件」も勃発。日本の多くの若者が中国で進行する文化大革命の影響を色濃く受けたことは間違いありません。

そうした時代背景もあり、私は新しい中国の姿をもっと知りたいと思い、東京外国語大大学の中国科に進学しました。当時、数は少なかったのですが、中国からの留学生やNHKや文化放送で中国語を教えている王先生らと親しく交流を重ねました。

その後、新日本製鉄に入社し、『大地の子』の舞台となった宝山製鉄所からの技術研修生の受け入れを担当しました。当時は中国からの研修生の受け入れに反対する右翼の街宣車が東京駅前にあった新日鉄の本社ビルに連日押し寄せ、「売国奴」呼ばわりされたものです。私たち新入社員は上司から「体を張って、中国からの研修生を守れ」と指令を受け、大いに緊張した日々を送りました。

また、1984年の3000人の日中青年友好交流の日本代表として、この事業に参加することにもなりました。当時の中国は貧しく、天安門広場での歓迎イベント会場には仮設トイレがなく、地面に掘られた穴を使うように言われ、「まさか!」と戸惑ったものです。

その翌年、日本政府は中国から300人の青年代表を招待しました。前年、中国でお世話になったこともあり、私は来日した中国の若者と共に日本各地で友好親善の交流事業に参加したものです。その団員の一人が、天津青年歌舞団の花形スターで、中国では誰もが知っている蒋大為でした。日本ではまったく無名でしたが、行く先々で中国の歌を披露してくれました。

とはいえ、彼が歌えるのは中国の歌ばかり。途中から、「日本の人たちと日本の歌を一緒に歌いたい」と言い出したのです。そこで、私が移動中のバスの隣の席に座り、当時日本で流行っていた歌を口伝えで紹介することに。その頃人気だったのは「北国の春」と「夢追い酒」でした。

蒋氏は「北国の春」に惚れ込み、たちまちマスターし、各地で熱唱してくれました。その効果は抜群で、日本人との心が通じ合う機会が一気に加速したものです。彼は帰国後、中国のみならず、東南アジアでも、この歌を大ヒットさせることになりました。「北国の春」は今では中国で最もよく歌われる日本の曲になっています。

この歌が中国やアジアで流行するきっかけを作れたことは、私にとって実に思い出深いことです。その後、蒋氏は北京の人民大会堂で私のために盛大なパーティーを開いてくれました。そこで一緒に「北国の春」を合唱したことは、生涯忘れられない思い出になっています。蒋氏は現在では中国とカナダを行き来する暮らしですが、今でも音楽を通じた国際交流には熱心に取り組んでいるとのこと。再会を楽しみにしています。